追悼:谷川俊太郎さんが教えてくれた自由な詩と優しさ
- Emi
- 2024年11月30日
- 読了時間: 3分
更新日:2月20日
詩人・谷川俊太郎さんがお亡くなりになりました。
「自由な詩がいい。年齢も職業も性別も問わない。全部自由な詩にしよう。」
この言葉そのものが、まるで俊太郎さんの生き方のようです。
今振り返ると、楽しかったことが次々に思い出されます。
俊太郎さんと自由な詩
一時期、俊太郎さんと息子の賢作さんにお願いして「ことばとあそぶ おととあそぶ」という詩と音楽の公演をしていました。
その延長で、「谷川俊太郎賞」という企画をしました。公募した詩を俊太郎さん自ら選び、受賞作をコンサートで朗読し感想を伝える、もうファン垂涎の企画です。
この企画を思いついたのは、俊太郎さんに選んでもらえて、おまけに褒めてもらえたら、その詩を書いた方は人生が変わるくらいの衝撃なんじゃないか?と思ったのがきっかけでした。
他の方はどうされていたのか知りませんが、私の場合はFAXで「俊太郎さんとしたら楽しそうなこと」を送る。
数日後に「谷川俊太郎ですが…」と自宅に電話がある。
うちの父が電話をとって「おーい、谷川俊太郎さんから電話!」と大声で呼ぶ。
そして、私が大慌てで受話器をとる、というのがいつもの流れでした。
一方で、俊太郎さんからの返事はいつもシンプル。「いいよ。やるよ。」「やらないよ。」の二つ。毎回ドキドキでした。この時は「詩の選考をやったことないから、やってみるよ」みたいな感じでした。
じゃぁ公募条件はどうしよう、となった時に言われたのが、先ほどの「自由な詩がいい」です。
そして、終了後に「選考は二度としない。」と笑いながら言われた理由は、俊太郎さんだけが知っています。
俊太郎さんと海辺の授業
他にも「海で詩の授業がしてみたいです!」と実現したのが、徳島県の海陽中学校での浜辺の詩の授業でした。
学校のすぐ前に広がる松林と海。ホワイトボードを運んで、砂浜に座る子ども達とビールケースを椅子にする俊太郎さん。BGMは波の音と賢作さんのピアニカの音だけです。子ども達が「うみ」から連想したさまざまな言葉を、俊太郎さんがするすると一つの詩にまとめていく。魔法のようでした。
あの時の子ども達、青い海と青い空の下で俊太郎さんと詩を作ったこと、覚えているかなぁ。
俊太郎さんとあそび心
そうそう、「茶室で俊太郎さんとワイン会がしたいです。遊びに来ませんか?」と、高松の栗林公園へ来ていただいたこともあります。仕事じゃないんです。あそびです。
当初、集まった方達はびっくりするくらい緊張でカチコチでした。俊太郎さんはというと、お酒を飲んでも変わらないのでいたって普通です。
飲んで、食べて、会話をする。ワイングラスが重なるにつれ、俊太郎さんの穏やかな話ぶりに、徐々に笑顔が広がりました。
私の車で徳島から高知まで、観光をしながら大移動をしたこともありました。その時、運転席、後部座席を含めて、全てに座った俊太郎さんの車好きには驚きました。
もう聞けないあの声
実現しなかったアレやこれは、本当に今でも残念で仕方がありません。
俊太郎さんとしたかったことなので、これらは永遠にお蔵入りです。
二度と「谷川俊太郎です」という電話がかかってくることもありません。
やっぱり寂しいです。
とても優しい方でした。
だから、私は俊太郎さんに緊張することはなかった。
「自分の頭の中にあるうちは、その詩は自分だけのものだけど、
原稿用紙にペンで書いた瞬間から、詩は自分だけのものじゃなくなる」
俊太郎さんが生前よくおっしゃっていたように、これからも俊太郎さんの詩は、私を含め、たくさんの人の心に寄り添い、その人の時々の思いをのせて大切にされていくのでしょう。
俊太郎さん、ほんとうにありがとうございました。
心からご冥福をお祈りいたします。
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