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大和朝廷はどうやって国を守った?前方後円墳と外交の歴史

  • 執筆者の写真: Emi
    Emi
  • 3月25日
  • 読了時間: 4分

邪馬台国と大和朝廷の謎



邪馬台国、大和朝廷はまだわからないことが多い。

でも、私が子供のころに習った歴史と比べると、現代の研究は大きく進展しています。


前回は、三国志で有名な曹操や諸葛孔明たちと実は同時代を生きていた弥生人。「大陸で領土を広げ続けている曹操が攻めてきたらどうする?」と言う危機感をもとに一致団結した、と言うところまででした。


今回は、その実践編。


「古代日本がどのように自国を守ろうとしたのか」と言う話です。


特に、古墳時代に入って「前方後円墳」が果たした“見せる外交戦略”に焦点を当ててみます。



古代の外交戦略:巨大古墳と威光の演出



弥生時代から古墳時代へと移り変わっていく2世紀末、日本列島には複数の勢力が存在していたが、その中でも特に強かったのが北九州と岡山。ちなみに、瀬戸内沿岸の地域には全体的に強い勢力が多かったようです。


一つにまとまって国を作ろう!と考えたものの、問題はどこに政府を置くか。


北九州は大陸に近すぎるためダメ。もう少し奥まった場所、つまり内陸がいいだろう、と対大陸戦略視点で中央都市の場所が決まったと考えられます。



では、「どうすれば強い国に見せられるのか?」



もちろん、実際に強くなるのが1番だけど、まずは『強い国』だと思わせるのも大事な戦略だった。


そのために効果的だったのが、仁徳天皇陵でお馴染みの巨大な前方後円墳。


古墳時代の中頃、5世紀に例えれば、瀬戸内海から大阪へと入ってきた大陸の使者から

「あの大きなものは何だ?」

と尋ねられた場合、

「これは我が国の王のお墓です。いやいや小さくてお恥ずかしい限りです。」

なんて、そんな謙遜をしてみせたのかもしれない。


何事も最初が肝心。


日本に来てすぐに、巨大な墳墓を見た大陸の使者は、その権力と財力を肌で感じたはずです。


また、飛鳥時代末の7世紀初めには隋からの使者、裴世清ら入京に際して金箔を施した船、煌びやかに飾られた馬たちが出迎え、さらに『我々の国は強いんだぜ』という演出が続く。


結果として、日本は大陸からの侵略を受けることなく独自の文化を発展させることができた。 この「見せる外交」は、ある意味で大成功だったのです。



古代日本の文化の融合



この頃から、日本は文化を柔軟に取り入れるのが得意だったのかもしれない。


例えば、先ほどの墳墓を例にとると、3世紀の前半には中央政府の威厳として、岡山からは「埴輪」を、北九州からは「鏡」を、中国地方からは「ふき石」を取り入れた最先端な墳墓である前方後円墳を作る。


それぞれの良いところを寄せ集めて、大和朝廷は、まさにハイブリット。

多様な文化を取り入れて、より洗練させて、大和朝廷は強い国を作り上げていく。


だって大陸の勢いが強すぎて怖い。

生存競争に勝たなくてはいけない。

そのためには、自分たちの「独自性よりも強さ」が求められた時代。


生き残るためには、多様な文化を受け入れ、融合させていく柔軟さが不可欠だったのでしょう。



考古学が明かす、

新たな発見



考古学は今も進化を続けています。


奈良県の纒向遺跡では調査の過程で、「江戸時代に日本へ入ってきた」とされていたゴキブリが、実は3世紀にはすでに存在していたことがわかりました。


花粉分析からは、外来植物の紅花やバジルの存在も確認されています。


もちろん、推測できること、わからないことはまだたくさんある。

でも、日々の地道な研究によって、次々と新たな発見が生まれています。



歴史が教えてくれる

「生き抜く力」



邪馬台国がどこにあったのか、大和朝廷がどうやって成立したのか──それも興味深いテーマです。


でも私は、「この国を守るために、当時の人々がどのように協力し、工夫していたのか」 そんな人間らしい営みにこそ、歴史の面白さがあると感じました。


考古学は、古代からのメッセージを今に伝える学問。 その奥深さを、今後も楽しみたいと思います。

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